有楽町のビルとビルに挟まれた、ぽっかりとできた小さな広場で僕は彼女を待っていた。街全体が白っぽい、眩しい初夏だった。まるで買ったばかりの服に身を包んだ人々が、次から次へとショップヘ吸い込まれていくのを、僕はコンクリートの冷たいベンチに腰かけて眺めていた。彼らの服装は、いつも磨き上げられて新車のように見える日本の車を思わせる。一方、僕の服装はヨレヨレのアメリカの中古車のようだ。色落ちした黒のジーンズにGジャン、襟が延びた紺のTシャツに黒のソックス、ただし足周りは新調したばかりの黒の皮のローファーを履いている。
僕の飲み代と彼らの衣料費とではどちらが上だろうかと考えながら、僕は何気なく上を見あげた。そこに“やつ”はいた。原色が艶やかなインコが…。人気を感じさせない灰色の無機質なビルの五階の窓枠に掴まって、窓ガラスをコツコツと叩いている。足で窓枠を掴みながらも、翼をバサバサと動かしている。人通りの激しい周りを見渡した。どうもこのインコに気付いているのは僕だけのようだ。
「飛べないのではないか?」と思った。きっと誰かのペットだろう。逃げ出してきたのか、捨てられたのか。僕はなす術もなくインコを見ていた。突然、インコは窓枠から足を離して、半メートルほど壁から平行に離れた。翼を懸命にバサバサと動かしながらもインコは下降し続け、四階の窓枠にしがみついた。僕はホッと胸を撫で下ろした。自分の心臓がドキドキしているのがわかった。まったく無茶なことをする奴だ。おまえは飛べないんだから、外に出ちゃいけない、外に出たら死ぬよ。おとなしく部屋で、鳥カゴの中にいなきゃ…。
「お待たせ!」
視線を下にずらすと優しい笑顔の彼女が立っていた。大きな瞳に長い髪、わからないぐらいに化粧をしている。薄い黄色のローヒールを履き、丈の長い、やや明るめのカジュアルドレスを着ていた。実際に彼女が着ると、地味な服でも明るく見える。指には僕が買ったアクアマリンの指輪をしていた。それ以外のアクセサリーは時計だけだ。
「ひさしぶり。待った?」嬉しそうに微笑みながら彼女が言った。
「ううん、そんなことないよ」僕は約一カ月ぶりに出会えた嬉しさをうまく表現できないまま、曖昧な表情で答えた。
「いい天気ね。さあ、行きましょうよ」
「うん」僕は言った。「その前に、ちょっとあそこを見て」僕はインコのいる場所を指差した。
「インコじゃない? なにしてるのかしら」
インコは相変わらず翼をバサバサと動かしながら、窓枠に不細工な格好でしがみついていた。いまやかろうじて掴まっているという感じで、いまにも落っこちそうだ。見ていてハラハラさせられる。
「さっきからずっとああやっているんだよ。どうも飛べないらしいんだ」
「誰かのペットかしら」
「きっとそうだろう」
「きっとこのビルのひとよ。すぐに気付いて探しにくるわよ」
僕は腰をあげずにインコを眺めていた。彼女に目を移すとその微笑みに一縷の影が射していた。
「そうだね。まあ、大丈夫だろう」僕はインコを見上げながら立ち上がり、歩き始めた。その時だった。インコが落ちてきた。インコは懸命に翼を動かしながら、その体をビルの壁や窓に擦りつけながら、ゴツゴツとぶつけながら地面にドサリッと落ちた。
インコの近くに人はいなかった。数人の人がインコに気付いたようだったが、一瞥を与えるだけで、その後はまるで何事もなかったように歩き始めたり、話し始めたり、視線を別の場所に移した。僕は慌ててインコに近づいたが、インコは逃げなかった。インコは小さな声で鳴きながら、せわしなくピュコピュコと歩いている。インコのそばに佇みながら、何もできない自分を恨めしく思った。自分のインコではないのだから、この人込みのなかで、まるで自分のもののように捕まえることはできない。
「ちょっと、あのインコを見ていてよ。なにか食べ物を買ってくるから」僕は近くに立っていた彼女にそう言うと、すぐ近くのハンバーガーショップに駆け寄った。インコの好みを聞かなかったので、とりあえずハンバーガーセットを買った。「お持ち帰り」と言うと、すべてを紙袋に入れてくれた。慌ててインコの場所に戻り、まずポテトをインコの口元に持っていった。正確に言うと嘴の近くだ。まったく見向きもしなければ、匂いを嗅ごうともしない。買う前に好みを聞かなかったことを怒っているのかも知れない。彼女は近くに立ちながら、興味深そうに、そしてやや呆れた顔で一人と一羽を眺めていた。僕は紙袋からいくらかのフライドポテトを掴むと自分の口に放り込み、彼女を見ながら肩をすぼめた。
「悪くない」僕は言った。「いつもと同じ味だ」
「きっとグルメなのよ」彼女はククッと少女のように笑った。
「ケチャップと酢を混ぜて、フライドポテトにつけて食べるとおいしいんだ。知ってるかい?」僕は口をモゴモゴさせながら言った。彼女は肩をすくめた。
次にハンバーガーが包まれた袋を開いた。パンを丁寧にずらしてハンバーグだけを指で少し千切り取った。百パーセントビーフが売り物である。しかし、食べなかった。ピクルスも食べなかった。パンも食べなかった。
やや見た目が悪くなったハンバーガーを彼女に差し出すと、彼女は首を振った。僕は「これが太る原因だ」と思いながらも、もったいないので食べることにした。インコは僕を見向きもしないで、同じ場所を行ったり、来たりしていた。
通り過がりの若いOL風の女性が、インコに気付いたらしく僕たちの方にに近づいてきた。「弱ったな」と思った。できれば誰にも知られないまま、このインコをどうにかしたかったのだ。
「かわいいインコね」その女性はまるで自分の子供をあやすように自然なカタチで僕たちの間に割って入り、膝を曲げた。薄手の白のブラウスにウールのカーディガン、膝丈ぐらいの黄色いスカートを履いていた。なんとなくボランティア活動に参加しそうな女性だ。
「あなたのインコですか?」女性は僕に向かって尋ねた。
「いや、違いますよ。上から落ちてきたんです、このインコ」僕は困った表情を見せながらビルの五階を指差した。女性は「そうなの」と答えると、しばらくインコの近くにいたがやがて立ち上がり、黙って去って行った。
僕は胸を撫で下ろした。 「とにかく、ここにインコを放っておくことはできないな。どこかへ連れて行ってあげよう」
「なぜ?」彼女は表情を変えずに言った。
「ここは人が多すぎるし、こいつは飛べないよ。ここにいたら、誰かに無理やり捕まえられてカゴの中に閉じ込められるか、この場所で死んでしまうよ」
「それはわかるわよ。でも、なぜあなたがピーを連れていかなきゃいけないのかが、わからないの」
彼女はいつの間にかインコに「ピー」という名前をつけていた。理由はただ歩き回りながら「ピー、ピー」鳴いているからだ。
彼女の静かだが、痛烈な質問に僕はたじろいだ。答えがないのを知りながら答えを探そうとしたが、やはり言葉は表れなかった。彼女の眼にはやや挑戦的な、それでいて懇願するような色が表われていた。
「乗りかかった舟さ。すぐに終わるよ。この近くの日比谷公園に連れていこう。すぐさ」
「あなた、やたらとピーには優しいわね」彼女は僕から眼をそらすとスタスタと歩いて石のベンチに上品に座った。
僕は気まずさを覚えながらも何も答えずにハンバーガーショップのロゴマークが大きく入った紙袋を持ってインコに近づいていった。周りの視線が気になった。誰にも気付かれずにインコを捕まえたかった。右手に持った紙袋をインコの歩く方向に置き、左手でインコを後ろから押して入れようとした。もちろんインコはおとなしく入ろうとせず、僕の左手に噛みつき、紙袋をよけた。二、三度同じように失敗し、僕は大きな苛立ちを覚えた。長期戦は避けたいのだ。紙袋を左手に移し、右手で一気にインコを後ろから掴んだ。インコは暴れたが、逃げる暇を与えずに紙袋に放り投げた。インコはガサガサと音を立てながらしばらく暴れていたが、すぐにおとなしくなった。
「さあ、行こう」僕は腕時計を見た。インコと付き合って、もう1時間半を超えていた。彼女は黙ってベンチを立った。
彼女は歩きながら静かに優しい口調で言った。
「でも、日比谷公園に放してあげることがピーのためになるの? いままでずっとカゴのなかで暮らしてきたのに…。いきなり自然に放り出されてもただ迷惑なんじゃない?」
「確かにそうだけど…」僕はため息をついた。「でも、もし君がピーなら、またカゴに戻りたいと思う?」
「そんなのわからないわよ。私、鳥じゃないもの…」
「公園じゃ、ひょっとしたらすぐに死んでしまうかも知れない。でも、ほんの少しの間でも自由を味わえるよ」
「それって、あなたの自己満足じゃないの?」
心のなかで「そうかもな」と僕は思った。ひょっとしたら僕はただインコを飼い主の元へ返したくないだけかも知れない。ただ公園でインコを放してあげたいだけかも知れない。本当のところはインコの気持ちなんて、まったく考えていないのかも知れない。自分がやりたいことをやっているだけだ。彼女の意見は無慈悲なまでに的を射て、正しいような気がした。
「わからないよ。でも、あのままの状態で放っておきたくなかっただんだ」僕は言った。彼女は何も答えなかった。
彼女は歩きながらも途中のブティックに眼を走らせて「ここ新しいお店ね」とか、ひっそりとした小さな居酒屋のメニューを覗き込みながら「こんなお店が意外においしいのよね、また来ましょうよ」と明るく言った。僕はその間も自分がなぜこんなことをしているのかをずっと考えていて、彼女の言葉に「うん」とか「そうだね」と心のない相槌を返すだけで精一杯だった。
日比谷公園に入った。草木の生きる匂いがする。小動物の小さな鳴き声がする。できる限り人気の少ない場所へ、静かな場所へ、柵を乗り越え、道のない道を奥へ、奥へと入っていった。
そこは小さな森のようだった。
「このあたりでいいんじゃない?」彼女が言った。
「もう少しだけ奥へ入ってみよう」僕は彼女の返事も聞かずに進んで行った。幅約二メートルぐらいの堀があり、その間に水が少し流れている場所を見つけた。
「ここにしよう」僕は言った。「ここなら最低、水は飲める」
僕は堀の下に降りると紙袋からインコを放した。インコは困った表情でヨチヨチと歩きながら周りを見ていた。飛べないのが不憫だった。
「さっ、行きましょう」明るい声で彼女が言った。「これでピーもハッピーよ。元気に生きていけるといいわね。さあってと、もう映画を観る時間はないけど、少し買い物する時間ならあるわ。さあ、行きましょう」
「ここにいても、こいつには食べ物がない」ポツリと僕は言った。「この新しい環境に慣れて、自分で餌を見つけて食べられるようになるまで少し時間がかかると思う。それまで食べられる餌があったほうがいい」
彼女は首を振って諦めた表情を見せた。ため息をついた。「それで、どうするの?」
「ペットショップで餌を買ってくる。すぐに戻る。それまでインコをしっかり見ていてくれないか?」
「もう、いいんじゃない? ここまでやったんだもの」
「いや、ここで帰ると中途半端だよ。公園で放してやるからには、餌ぐらいあったほうがいい」
「あなた、何を考えてるの? あなた、ピーのことばっかり考えて。私のことは? 私よりもずっとピーに優しいじゃない。久しぶりにやっと会えたと思ったら、これよ」それから彼女は冷たく険しい口調で一気にまくしたてた。眼がギラギラと輝いていた。恐らく僕が今日の二人の予定よりインコを優先させた時点から心の奥に滞りがあったのだろう、と僕は思った。あるいは仕事を理由に一カ月以上も会えなかった時点から。
違った。彼女の苛立ちや哀しみは何も今日あるいは一カ月前に始まったものではなかったし、あえて期間に意味はなかった。彼女の言葉には深さがあり、重さがあった。僕は彼女と付き合いながらも、彼女を何もわかっていなかった。彼女は笑いながら泣いていたのだ。沈黙しながら叫んでいたのだ。いつも明るく、そして強く見えた彼女は、実はちょっと押せば崩れそうであり、倒れそうであったのだ。彼女の大きな瞳から涙が流れていた。僕はただ黙って聞いていた。なにも答えられなかった。
彼女はやがて大きなため息をついた。
「いってらっしゃい…」優しく彼女がつぶやいた。「…見ててあげるから」
僕は「うん」と頷くと、インコと彼女を後にして走り始めた。その日は買ったばかりのローファーの皮靴を履いていた。銀座を歩くにはいい靴だが、走るには適していない。もっとも銀座をインコの餌のために走る者も滅多にいない。三越デパートの上階に確かペットショップがあったはずだ。僕は銀座の人込みのなかをゆっくりとした駆け足で抜けて行った。
デパートは人で溢れていた。エレベーターではなく、エスカレーターでペットショップの階まで昇った。エスカレーターのゆっくりした速度にイライラしながら「なぜペットショップは屋上に近い階にあるのか?」を考えた。
ペットショップにようやく入ると、言いようのない匂いが鼻をついた。鳴いたり、叫んだりと賑やかなムードだが、どの動物も楽しそうでないのが気になった。ピーにそっくりなインコもいる。シンプルなブルーの制服に身を包んだ、若い女性の店員に僕はそのインコを指差しながら話しかけた。
「あの~、ここにいるインコが食べるような餌を欲しいんですけど」
彼女は人の良い笑顔を見せると「それなら、これですね」と言って、大きな餌の袋を持ってきた。もっと小さいのはないかな、と思ったが聞かなかった。まあ、少ないよりは多いほうがいいだろう。
僕は餌を持って、日比谷公園に向けて走った。『走れ、メロス』だ。ただ、いまの自分はメロスより分が悪い。靴ズレして足が痛むし、手には二キロの餌を持っている。彼女は怒って待っているし、この餌を早く届けても彼女の機嫌は直りそうにない。王様は褒美をくれない。インコは飛べないうえに、食べ物の好き嫌いが激しい。
その頃、なぜ僕はインコの餌に固執したのか、わかり始めていた。日比谷公園に一歩足を踏み入れた瞬間から、僕は「インコの死」を予感していたのだ。自分はこのインコを殺そうとしている。日比谷公園でインコが生きていけないことをと知りつつ、放そうとしている。そんな自分に嫌悪を抱き、罪滅ぼしの気持ちから餌を置こうとしたのだ。餌があれば、死が数時間、数日延びると考えたのだ。まったく、結構な話だ。
公園に入った。彼女は待っていた。ただし、彼女がいたのはインコを放した場所よりも少し手前のベンチだった。 「ピーは?」僕は息を切らしながら言った。
彼女の眼はやや赤かったが、涙は止んでいた。彼女は「さっきの場所にいるわ」と無表情に答えた。
僕は急いでベンチの後ろの柵を越えて、湿った薫りのする薄暗い場所に入っていった。インコを放した小さな川に着いた。
インコはいなかった。
「あれ、おかしいわね、さっきまでここにいたのに…」後から追ってきた彼女が少し心配そうな声で言った。
僕は彼女の言葉も耳に入らずに、慌ててまわりを見渡した。
数メートル離れた、やや暗い木々の間でなにかが、光った。
猫の眼だった。
猫は顔だけをこちらに向けて、じっと時間が止まったように凝視していた。僕が少し体を動かすと、猫は瞬時に数メートル動いて、また止まった。そして、ふたたび僕と彼女のほうを見つめた。僕は近くにあった木の切れはしを静かに掴むと、猫に向かって投げた。猫は切れはしが落ちるよりもずっと前に、僕たちの視界から消えた。
周りをゆっくりと静かに歩きながら、改めて注意深くインコを探した。
「ごめんなさい」彼女が悲しく、淋しい声で言った。その声にはすべてを許せる響きがあった。もっとも彼女は何も悪いことをしていない。
「あたしが離れたのがいけなかったのね。ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないよ」僕は言った。「猫に食われたと決まったわけじゃない。ピーはきっとどこかに逃げたんだろう」
彼女は答えなかった。アクアマリンよりも奇麗で、澄んだ、いつもの瞳の輝きが消えていた。泣きそうな顔で彼女は必死に周りを探し始めた。
「ピー! ピー!」彼女はいまにも崩れそうになりながら声を小さな森に放ち、さまよった。僕は彼女を後ろから抱きしめると「もう、いいから。もう、いいから」と言った。同時に彼女が「ごめんなさい」と叫び、再び泣き始めた。僕は「大丈夫、大丈夫」と意味もなくつぶやきながら、ただじっと彼女が泣き止み、落ち着くのを待った。
「あとはピーが自分でやるさ。とりあえず、ここに餌を置いていってやろう」僕は買った餌の袋を破るとピーを放した川の辺りにすべてを一気にばらまいた。ザーと音を響かせて、餌は土に溶け込んで入った。
「ピーはいまも自由にピーピー鳴いてるよ。お腹が空いたら、ここに戻ってくるだろう…戻ってくるといいな」僕は餌の空袋を手でまるめるとポケットに突っ込んだ。
「もう少したったらピーも空を飛べるようになるさ」
「そうね。早く空を飛べるようになるといいわね」彼女はちょっと無理に笑顔を浮かべながら、優しく言った。
「遅くなってごめん。もう、夕食の時間だね。さあ食べに行こう」
「うん」
僕は彼女と歩き始めた。
「イテテッ」
「どうしたの」
「いや、靴ズレのままで走ったから…」僕はちょっと靴を脱いでみた。靴下に血がにじんでいた。
彼女は少女のように眼を丸くして言った。
「あなたって人はわからないわね、ほんと」彼女は呆れた表情で、それでいて母親のような包容力で僕をいたわるように見つめた。「人のことをほったらかしにして、鳥のために足から血を流して走るんだから」
彼女は何かを悟ったように、小さくコクンと頷いた。そして「また、ピーに会えるかしら?」と澄んだ声で言った。
「会えるさ。また、ここに来よう」
二人は手をつないで日比谷公園を後にした。
数日後、彼女は「ピーの夢を見た見たわ」と電話で言った。僕たちは二度といっしょに日比谷公園に行かなかったし、インコを見ることもなかった。
ピーは僕が小学校四年生の時から八年間いっしょに住んでいたインコにどこか似ていた。名前はピーコといった。